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東京から焼津(藤沢、平塚、小田原、熱海、沼津、富士と清水経由)



 入国管理手続き関係で丸一日通やしてしまいましたので、更に一日東京にいる事になりました。しかし東京と私の相性はあまりよくありません。
昨夜は非常に落ち着きませんでした。寝床についても、いろいろなシーンや刺激や印象が私を襲い掛かってきます。目の前がちらちらして、30分置きに飛び起きてしまいます。
 
 せめてもここで余分に過ごしている時間を雑用で有効的に使う事が出来ました。郵便物を発送したり、写真をCDに焼き付けたり、家にハガキを送ったりして、私のことを優しく思い出してくれるでしょう。

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東京とお別れ

 カズハさんに地下鉄まで見送ってもらい、そこから私は東京を藤沢方面に向かって離れました。本日の役目はここで静かな場所を探して、リラックスしながらこの日を無駄に過ごす事です。ラッキーボーイの私はそれが達成できました。
港で海辺に座り込み、時間が無駄に過ぎていきました。


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いつも港に惹かれて行ってしまいます


 私はまた動き出しました。そして私の希望は 歩く 歩く 歩く・・・・・です。
これは言うより実行するのが大変です。翌朝歩き始めて300mの所にいきなりカフェがありました。この旅でこのような機会を簡単に見逃してはいけないと習得しましたので、中に入りました。

 年老いた女性が私に話しかけてきて1枚のビラを渡されました。しかし私は彼女が何を言っているのか、またビラに何を書いてあるのかも判りませんでした。何か特別な「力」について話している事だけ判りました。英語の「パワー」という言葉だけが通じ、同時に私の背中に手を当ててきました。
 しかし何故多くの人が、私が背中に痛みを抱えているのが判るのでしょう?彼女は私の頭に手を置くことも出来たでしょう。でも今は体調が良く彼女のお世話になる事は必要ありませんでした。その代わりではないのですが、ビラが入っているバックを持ってあげようとしましたが、断られましたので、そこで分かれることにしました。


 次の日は、幸運と不幸が如何に近くに存在しているかを実感しました。またしても非常に日差しの強い日で、休む事が殆ど出来ませんでした。そしてローソンで私のパラダイスを見つけたと思いました。この旅を始めてから初めて正しい道路側にありました、すなわち影がある道路側で、余計な事にベンチまで置いてありました。素晴らしい!だけどこの幸運は長く続かない物でした。ベンチで昼食を食べ始めようとした時、小さいトラックがバックで目の前に駐車して、排気口の中が覗けました。排気ガスの中に座っている事になってしまいました。どうぞ美味しく召し上がれ!
仕方なく冷めたソーセージを別のところで食べる事にしました。この国ではエンジンをつけたまま駐車するのは非常に拡がっています。

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どんなファーストフードよりも良い


 翌日またあの気分が私を襲い掛かってきました。何が原因なのか私も解りません。素晴らしい二日間が過ぎた後の落ち込みです。もう歩きたくない、歩けない、やめたい。空っぽで疲れた、家に帰りたい。今度は本当にひどいので家に電話してしまいます。勿論どうするかは自分で決めるように言われますが、結論を出すまでにしっかり時間を掛けて考えるように進められました。結局何日も考えるのであれば、ここに残っていても同じ事ではありませんか。まだそのような事を言われた反抗心の方がギブアップして家に帰りたいと弱音を吐いている自分より強かったのです。ここに長くいればいるほど疎外感に駆られてしまっている感じがします。この気持ちは一度始まると何日も続いてしまう事が多いです。しかしどうする事も出来ません。ゴールしたければ続けて歩くしかないのです。



 熱海のマリーナで休んでいる時、突然日本人に素晴らしいドイツ語で話しかけられ、写真を撮ってもらうことになりました。写真を撮ってもらうことはそれ程大事ではなかったのですが、それ以上にドイツ語で目の前の人と話が出来るという事が非常に精神的に良かったのです。
この関連で思い出しましたが、全ての会話や頭の中の回想も、全部英語でするようになっていました。英語で考えたり又は暗算をする時、時々自分に「ドイツ語でやったら?その方が簡単だよ」とはっきり言いたくなります。だけどまた何故か短時間で英語に戻ってしまいます。

 この言葉の関連で、ちょっと面白いエピソードがありました。沼津のホテルの受付の方々は次の富士での宿泊先を探してくれていました。ホテルを一つ見つけては、すぐに満杯と聞きます。それはしょうがないので、私は英語で「アナザー・ワン」(他のを)とお願いしました。そうしたらかなり探した後に、私にホテル名を間違いたのではないかと言って来ました。富士には「AnotherOne(アナザー・ワン)」というホテルはありません。ホテル名を書いてくださいと頼まれました。さてこのような時は一体どう反応すればいいのでしょうか?
私は仕方なく寛大な素振りをして紹介してもらう事にしました。5分で予約は完了しました。


霧雨と霧の中富士に到着しました。ホテルの受付で開口一番に「一体[あれ]はどこにあるのですか?」と聞いたところ、肩をすくめて霧の中を指差されました。残念でした。

東京から焼津(藤沢、平塚、小田原、熱海、沼津、富士と清水経由)_d0095604_1915780.jpg


後から知りましたが、富士山は恥ずかしがりで偶にしか姿を見せてくれない


 翌朝6時15分に眼が覚めました。私はカーテンを開けて寝る習慣がありますので、起きて突然富士山が見えました。立派で素晴らしく、魅力的で綺麗でした。まだ少し霧が掛かっていて、厚い雲が頂上に乗っていました。でも私は観ることが出来ただけでも嬉しく有難く思います。そして7時に目覚ましが鳴りました。その時はまた霧で覆われて全く見えなくなってしまいました。しかし神様は見捨てていませんでした。朝食後また歩き始めた時、素晴らしい秋晴れの中、富士山が私に微笑んでくれました。これは説明しづらいですが、息を止める程の興奮を感じました。残念ですが今年はもう頂上を目指す事は出来ません。多くの人にこの晩い季節に登山をするのは危険である事を聞きましたので、諦めました。私はここの環境があまり判らないので、勿論アドバイスに従う事にしました。



そしてここでまた自分自身の事で一言。
読者の皆さんよりお便りを沢山頂いております。その中に批判的な物もあり、特に掲載の定期性についての批判もあります。私は夜、疲労で書く事も出来ない日が多くあります。是非気長に待って頂きたいと思います。そして区間説明の長さについても同様な事が言えます。更にもう一つの理由が加わりました。それは沢山の応援メッセージに後押しされて、私はこの旅を一冊の本にまとめる事を致します。興味のある方はもうしばらく楽しみに待っていて下さい。そして批判的な方もそれで満足して頂けるのではないでしょうか。インターネットから本に切り替えるだけです。そこには事細かく書いていきます。
# by lothar_diary | 2006-12-14 19:04 | 関東
日立から東京まで(ひたちなか、水戸、石岡、土浦、取手、柏経由)



今回は私が一番多く聞かれる事について答える事で始めたいと思います。
つまり私は日本食が大丈夫かという質問です。オガさんとカズハさんが水戸に会いに来てくれた時の最初の挨拶も
「やあ、少し太ったんじゃないの?」でした。
本当に?
夜一人で部屋にいる時、鏡をそおっと覗いてみました。そうかもしれません。少しだけ。
とにかく日本食はとてもおいしく頂いています。
私は食べ物にうるさい人間のタイプではありません。殆どのものは食べれます、そして私は毎
日食べる事が出来るということが当たり前になっている所に生まれて生活できるのは幸福だと
思っております。
それでも旅の前はもちろん少し懐疑的でしたので、数キロは落ちると思っていました。
しかしその全く反対の事が起きてしまっています。体重が増えているのです。ズボンがピッタリになりました。
私の好きな食べ物は刺身(生魚)です。
今となって知ったのですが、私だけではなく多くの欧州の人と同じでした。
つまり、手をつけなくなったのは納豆と豆腐です。
両方とも何回か試した事がありますが、納豆(独特な粘り気のある豆)、
良く判りませんが、好きになれません。
豆腐があまり好きではないのは、大きな「無」を食べているような感じがするからです。
そして沢山美味しいものが私に微笑んでいるのに、何故そのような物を食べなくてはいけないのでしょうか。
ドイツに日本食レストランが少ないのが信じがたいです。本当においしいのに!


今回の区間の題名として「回復の区間」や「透明になる区間」を考えていました。
それはまずひとつは、肉体的な状態が非常に良くなったからです。あまり汗をかく事もなく、
皮膚も眼も良くなり、頭痛も殆ど消えました。ほぼ毎日のように日記に記す事が出来ます:
「肉体的に好調」と。
そしてもうひとつは、この区間ではあまり出会いがなく、しつこく見られることもなく又は
逃げられる事もありませんでした。ちょっと残念です。
それでもいい体験もありました。

ひたちなかでは、あちこちぶらつき歩いた後あるカフェに入りました。そこで同年代の男性に話
しかけられました。お客は我々だけでしたので愉快な会話が出来ました。彼は才能がある趣味
で弾いているギタリストで、準備なしで「リリーマレーン」(ドイツの昔の有名な曲)を弾いてくれま
した。私は非常に感銘を受けました。想い出の映像を取る為に2曲目をお願いしたところ、本物
のフラメンコを弾いてくれました。
ヨーロッパは遠く離れているのに。


次の日、水戸までの距離があまりないので、リュックサックを閉まって、観光ツアーに出かけま
した。まず駅前広場でウロウロして、非常に目立つ「ヤンキー」に驚きました。さすがにもう私の
世界ではありません。でも30歳若ければもしかして・・・
時間が経つのは早いものですね。まだ私は若者に道端で「おじいさん」とは呼ばれてません。
オガさんに日本語で「おじいさん」はなんて言うのか聞いて見なければ。



そして私のホテルの場所を探して周りの道と地図を交互に眺めている時に、[excuse me]
「すいません」と誰かがぶつかってきました。やった!彼らが見つけてくれました。
オガさんとカズハさんが来てくれて、一緒に素晴らしい二日間を過ごす事が出来ました。
なんて楽しむ事が出来たでしょう。私は何もせず、何も考えず、何も計画しなくてよかったのです。
見て、後を着いていくだけです。なんと素晴らしいことでしょう!
また別れる時は前回程の孤独感にはかられませんでした。
私の「祝杯」での再会が間近に迫っていますから。


そして取手への道中、いくつかの素晴らしい写真が撮れました。相当前から日光浴を楽しむ虫を見てきました。
いつも近づくチャンスがありませんでした。本当になかったのです。
けれども私は簡単に諦めませんでした。だけどいつかは諦めて忘れようとしていました。
シーズンはもう過ぎました、と。
そして偶然にも休息を取っている時、私の真横で、暴れている幼虫を食べているではありませんか。これもまた恵みです。
写真好きな人には判って頂けると思います。
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写真家の心が躍る

そして突然東京まであと25キロ。
突然どうしていいのか判らなくなってしまいました。歩くのか、電車に乗るのか?
長い間、歩くべきか考えましたがどんどん不安になってきました、街の密集地は苦手です。
もう既に25キロ前、自分ではついていけない速さで動いている大画面の前に立っている気分でした。
本当に神経の負担になりそうです。故郷の土手では一匹の羊に会うかもしれませんが、人口4千万人
の地域は私にとって多すぎます。
長い葛藤の末、結局電車に乗ることにしました。
上野行きの列車に乗り、そこから地下鉄で都心に向かいました。
簡単に聞こえますが、私にとって全くそうではありませんでした。
フーズムからシュレスヴィクの田舎の路線バスに正しく乗るだけでも大変な事なのです。
最初に入ってきた列車にはあえて乗りませんでした。まだこの混乱に身をさらしたくなかったのです。
日立から東京まで(ひたちなか、水戸、石岡、土浦、取手、柏経由)_d0095604_23325553.jpg

そして次の列車も乗りませんでした。そしてまずコーヒーを飲みに行きました。
そこのテーブルに「Who are you today?」(今日はあなたは誰ですか?)
と書いてありました。私は判りません。
トイレに行って鏡を覗いてくればいいのでしょうか、いや違う、そうではない、もう戻れません、
カズハさんに到着時間を伝えてありますので列車に乗らなければなりません。
そして想像どおり満員です。つまずいたり、押したり、隙間に押し込んだりして30分間乗っていました。
それから地下鉄への乗り換え。これは列車よりも数乗の倍数の大変さです。
私には勿論乗り込むための才能もありません、だけど最後には乗れました。
とにかく中に乗ることが出来ました。だけどリュックサックのベルトがドアに挟まれて
外側に取り残されてしまいました。
その後反対側のドアしか開かない駅が続くのにつれて徐々に心配になってきました。
自分の財産をどのように守るか短時間でいくつも不思議な考えが浮かんできましたが、説明致しましょうか?
でも地下鉄にも神様がいますので、どうにか自分と荷物を陽が当たる場所に救出することが
出来ました(勿論駅を通って出口から出ました!)。
東京を経験した方は、私のゲストブックに「すばらしい!」と記帳してください。

次の日は休息日です。ただ滞在許可を延長する為に入国管理局に街の反対側まで行かなけ
ればならないのが唯一の制限でした。

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あなたは今日は誰ですか?

これを済ました後はどんな優しい鏡に覗いても答えは見つからない。
だけど、東京に来ました。祝杯だ!

この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。特に私のゲストブックに書き込んで頂いた方々には
モチベーションと力を与えて頂きました。インターネットカフェを見つけることが出来れば、
そこで優しいコメントを読むことで、本当にまい進する事が出来ました。有難うございました。
皆さんは誰か判ると思いますが、会えなくて残念な人もいます。



将来的に私のウェブサイトを自分の公開討論の場として利用したいと思っています。
勿論更なる次の旅も計画中です(もう既にしてます、うちで待っている最愛の人よ)。
まだ私の中の地図には空白が多いのです。この関連で、もう充分沢山の汗を掻きましたので、
昔抱いていたアイディアがまた浮かび上がってきました。
空白の「白」という言葉通り:これを読んでいる方でアルプスや北極南極等の経験者は?
この方面に是非二人で旅をしてみたいです。
私が提供できるのは:そこそこの粘り強さ、持久力とスイスの4100m級の征服経験です。
いい交流になると思いますのでどなたか宜しくお願いいたします。

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ヘミングウェイのように「老人と海」
# by lothar_diary | 2006-11-15 23:35 | 関東
原町から日立(浪江、富岡、いわき、小名浜、なこそ、高萩経由)
この区間は私の肉体にとって今までで最悪のものでした。私の身体の状態は歩く気持ちとは裏腹に、急激に悪化していくばかりです。もしかしたら歩く野心を過信してしまったのか、又は何かに感染したように思います。良く判りません。少し動くだけで異常な汗を掻き、時には30分間隔で休みながら下着を乾かす程でした。更に皮膚が赤くなり、眼もどす黒く潤んで濁っていました。視界が狭まり、頭痛がしました。最初は心配になり、コーヒー、お茶や熱いスープを飲むのを止めました。暖かいものを口にする度に、何時間も汗を掻いてしまうので、氷水に変えることにしました。今の症状を家に連絡しようか悩みました。しかし余分な心配を掛けるだけですし、返事が来るまでにまた元気になっているかもしれませんので諦めました。
このような状態で歩くのは全く面白くありませんが、大きな喜びが私を駆り立てています。本当に不思議です。

富岡のホテルに到着した時は、冷たいシャワーとベッドだけが欲しくなりました。だけど今はそれを諦める事にしました。それは部屋に入ると、想像できる限りの最高の眺めが目の前に広がっていたからです。300m先には太平洋があり、まるで天国のようで、いつまで見てても飽きないくらいでした。窓を開け、カーテンを開け、椅子を窓の横に置いて、この状態で何時間も座って、聞いて、見て、海の香りを嗅ぐ事が出来ました。
富岡は夢のような町ではないでしょうか。大海の前の大きな町、その前に列車の線路。ここを通り過ぎる郷愁、幾つもの別れの涙や遥かな所への憧れ。富岡は涙の町ではないでしょうか。いくら見ても飽きが来ません。
薄暗くなってきてからやっと書き始めたくなりました。しかし夜の海に航路標識等が見え、幾度も回ってくる灯台の灯火を数え、遥か地平線の船舶が南や北に向かい、緑や赤色が見えてきました。
どうしましょう、富岡は本当に涙の町です、私にとってもそうなりそうです。
今すぐにでも家に電話をして聞いてみたくなりました。「再来年既に予定ある?」って。

いわき市に到着した時はびしょ濡れでした。チェックインするまでに少し時間が空きましたのでショッピングセンターに向かい身体を乾かしました。隅のベンチに座っていると、また見せ物になってしまいました。皆こちらを向きますが、誰も見ていない振りをします。今は疲労が酷いので、この位の事ではまだ逃げる気にはなりませんでした。それが良かったのです。二人のおばあちゃんが私の横に座り、全く物怖じする事無く挨拶をしてきました。

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私は(後から聞きましたが81歳の)年上の方のおばあちゃんがいかに早く3本のタバコを吸っていたかを見ていて、感激のあまり笑ってしまいました。

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それだけでもう楽しい会話が始まりました。我々どちらも相手が何を言っているのか判らず、混乱した30分が過ぎていきました。二人のおばあさんは買い物に行くので、別れる前にこれからの為にと、お弁当を買ってくれました。

このお弁当は勿論翌日なこそに向かう途中、喜んで頂きました。しかし疲れきった身体は精神にも影響し、今している事全てを疑問視し始めました。
更に全く違う反応をする人達が気になっていました。昨日のような優しい素直なおばあさん達に対して、今日はカフェで横のテーブルに私が座ると席を移動してしまったおばさんがいました。このような時の気分は最悪です。孤独感に襲われ、全てやっている事が馬鹿げて感じてしまい、止めようもないホームシックに掛かってしまいます。もし今チケットが手元にあれば・・・・。このような事態を想像していました。私のチケットは東京のオガさんの所にあります。これで良いのです。
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緑、静寂と自然への渇望


この区間の最終日は日立までです。またしても台風の影響を受けてしまいました。雨が降って荒れていましたので、今日私を待ち受けているものが想像つきました。帽子を被り、雨具を着て、フードを鼻の所まで引っ張り、いざ出発。

最初の30分で足が濡れました。ウォータープルーフ(防水)と書いてあっても、必ず足が濡れないとは限りません。またゴアテックス(防水加工の代名詞)と書いてあるタックがあっても、内容は保証されていません。そして雨具は45分持ちましたが、雨を吸い込むので雨具というのでしょう。やっと判りました。びしょ濡れですが、そのように思うと非常に気楽に歩けました。
幸い自分自身は節穴がないので安心ですが、一部の読者はそうではないと思う人もいるのではないでしょうか。

日立のホテルに到着した否や、受付でまずタオルと宿泊の料金表を非常に丁寧な感じで受け取りました。隣にいたピンストライプのスーツを着た3人のビジネスマンと私は同じ扱いをして頂きました。彼らは私を見えておりませんでした。

その後アジア風のペアが受付にやってきて、私と同じような言葉の障害がありました。私と同じように、小さな絵を書きながらインターナショナルな言葉や動作で意思の疎通を図っていました。

困惑のあまり、受付の人が私に中国語が話せるか聞いてきました。
これは愉快だ!世の中いろいろありますね!!

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# by lothar_diary | 2006-11-12 19:57 | 東海
古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)


バックパックが軽くなって、今度こそ時間的にも距離的にも長く歩きたい気持ち
はあったのに、この行程は今までで最も大変で退屈で辛かったのです。
その上歩いた距離は最短ともいえるものでした。
なぜかはわからないのですが、体調がベストではありませんでした。
たぶん体に過分なストレスが掛かっていたのでしょう。
両脚が元気な状態にあることはとても重要です。そのことをこれからの7日間で
再び思い知るのです。エンジンは掛からずリズムも掴めません。一般的に言えば
私はもう“年老いたベッド難民”で、眠るということ自体が楽しみなだけでなく、
翌日早起きして一杯のコーヒーを飲むことを楽しみに眠りにつくのです。
最愛のヒトも(軽く目をばちくりして)証明してくれるに違いありません。
でも今週はそうは行かないのです。グダグダと先延ばしにしてあと30分、あとも
う少しと横になったまま眠りません。

古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)_d0095604_234011.jpg

あとほんの15分だけ・・

今週は日本という国を「日の昇る国」「笑顔の国」というだけではなく
「放浪者が座る場所の無い国」と定義したいと思います。
時には3、4時間もの間、ほんのわずかに腰掛けるチャンスもなく歩き続けました。
贅沢なことを望んだわけではありません。駐車場の片隅に捨て置かれたレン
ガでも良かったのです。
休憩が必要なときにそれが許されないというのはとても辛いものです。一度私は
座る場所を得るという幸運をあたえられ、そこから素敵な出会いと素晴らしい出
来事がおこりました。
20メートル四方くらいの公園のようなところで1人の年配の女性と彼女の飼い犬
と一緒になりました。そこに入るときに挨拶して、また出るときにお互いにお別
れの挨拶をしました。すると彼女はバックパックに付けた日本とドイツの2つの
国旗を目にしたに違いなく、私の方にやってきたのです。

古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)_d0095604_236235.jpg

彼女はとても上手に英語を話し、友人がドイツに居ると言い、彼女の家でコー
ヒーをご馳走したいと招待してくれました。とても親切な女性との、そして歴史
を刻んだ古くて厚いアルバムとの信じられないような出会いだったのです。彼女
は世界中で色々なことを見ており、イタリアで11年間彫刻を学んだそうです。
私は日記に私のカミーユ・クロデールを見つけたと記しました。
私は今また、何のために旅をしているのかがわかりました。
数日ここで過ごすこともできたのですが、これからも続く長い道のりを思うと、
心残りではありますがそうもいきません。

今また交通量の激しさに随分と参っています。たぶん体が少しばかり弱ってるの
でしょう。
夕方ホテルで、レセプションの女性がどうやって我慢できるのかと聞いてきたの
で、午後を回った頃まではなんとかなっていたのだけれど、それからは大変で、
時にはどうにもならないくらいだったと正直に答えると、彼女は笑顔で、ここで
生まれた者ならもう少し耐えられると言っていました。

古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)_d0095604_23772.jpg

ワッデン海が恋しい

この技術大国の軽い不快さの中でも息継ぎしなければなりません。“けっして目
を離さないよ!日記用カメラ”の他に、旅行の始めに大容量メモリの小さなビデ
オカメラを、ちょっとしたビデオ撮影用に1台買いました。それだけ容量があっ
てもメモリが一杯になってしまったら写真屋に寄ってDVDにコピーしてもらえば
引き続き撮影できるのです・・がそうじゃないのです。私が通ってきた道程には
それが出来る写真屋は1件もありませんでした。一体どういうことなんでしょ
う。この4週間のあいだ1度もうまくいきません。自分が悪いのでしょうか。
何を間違えたのでしょうか。
日本の読者の皆さん、私にアドバイスしてくれませんか?

仙台では予定していた休息日をとりました。
遅い起床、おいしい朝食、一日中メインストリートから離れてぶらぶらと、趣を
味わい、写真を撮る。
気分が良くなって、翌日もまた機嫌よく岩沼に到着しました。早めに着いたので
もう一度のんびりと観光しました。夜中にバラバラと降る雨音と呻るような風音
で目を覚ますと、外は土砂降りのものすごい嵐だったのです。
でもそんなに困ったことだとは思いませんでした。これが7、8時間もすればま
た好天になるということを先週の経験から知っていたからです。だから今回もそ
うなるだろうと思っていたのですが・・。
目覚まし時計が鳴ったとき、さらに強風豪雨になっていました。そしてこの地獄
のような嵐の中出発して駅の前まで来たのは30分後でした。びしょ濡れになって
凍えてきたので、何とかしなければと考え次の行程は列車で行くことに決めたの
です。だというのに駅の切符売り場の駅員さんは指でバツ印です。なんとこの天
候で運休。
今私は台風圏にいるのだと教えてもらいました。
つまり岩沼で又休息日をとることになったのです。

古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)_d0095604_2385496.jpg

でも翌朝は静けさを取り戻しており、風があるもののこぬか雨のなか原町まで歩
きました。
行程半ばに来たあたりで、道沿いについにベンチなるものを見つけ、そこで少し
ばかり休みました。風と雨でくたびれ、そこに腰掛、半分柔らかくなったチョコ
レートを口にしたところでふと気づいたのです。今晩シャツを洗濯しなければな
らないということを・・・。
少し侘しさを感じました。一体ここで私は何をしているのだろう?
もうすぐ50歳になろうというのに。
たいてい私くらいの年齢の男性は趣味を”スポーツ“だと言い、キャンプ場で膝

上に孫を抱っこしてたりするのです。
そんなに幸先悪いわけでありませんが、フム、だけど今までの数週間で経験した
100の体験を思い出し、またまだ旅程の半分にも来ていないということも思い出
しました。
これから起こることを想像するとワクワクします。
だけどこのチョコレートの味もそんなに悪くはないな。

追伸:
それにしても座れる場所はだいたいにおいてナカナカのものです。
このホテルでは海の見えるところです。

古河から原町まで  (大和、仙台、岩沼、相馬経由)_d0095604_2391826.jpg

# by lothar_diary | 2006-10-31 23:09 | 東北
盛岡から古河へ

紫波、花巻、北上、水沢、一関そして栗原へ

朝起きてみると私の調子は悪く、気分も悪かった。
私は北ドイツから来ているので、十分な休息が必要になります。
夜は大きな棺のような部屋で寝ていたのですが、よく眠れなくて、
夜中にトイレに行く時にドアの敷居に躓き、転んでしまいました。
幸いな事に私の部屋はとても小さかったので、完全に倒れることは
無かったんですけど。
頭に瘤一つと、片手の小指を挫いただけで済みました。
その小指はビール瓶を開けるには支障が無いようです。

今朝は朝食を食べる気分ではありませんでした。
確かにいらないと言うにはもったいない程おいしそうでしたが、
自動販売機のコーヒーを2杯飲むことにしました。
それかあるいは、またしても私は一人でテーブルに着かなくてはならないのです。
他のテーブルはどこも4~5人は席に着いているのに。
私はそれをとっくに承知していますが、今日はそんな気分になれないのです。
時として私は立ち上がってこう言いたいのです。
「私はただの西洋人です。特に皆さんと違いは有りません。
 まあ確かに私はちょっと変わっているけど、害は無いよ!」
しかし残念な事に、私の日本語はそこまでには達していません。

それからまた私の旅は始まりました。
今日は特に何も見たいとは思いませんでした。
目を閉じ、感覚を遮断し、何も気にせずささ~っと紫波のホテル直行しよう。
ドアを閉めたら、まずはビールを。
少なくとも一本、出来れば2本!
しかしながら全く予想外な展開になったのです。
泊まる予定のホテルからおよそ2キロメートル辺りの所で、一人の男性が
私に話しかけ、スズキミノルですと名乗り、私に彼の車に一緒に乗らないかと
誘ってくれたのです。
でも私はそうしたくなかったのです。
私は歩きたいのです。私のこの気持ちは彼には信じられないかもしれない。
世の中には車で走るよりも、歩く方が好きな変わり者がいるなんて。
一生懸命説明しようとしたのですが、諦めて車に乗ることにしました。
私たちは彼の友達であるチダヒロシさんのところへ向かいました。
それから3人連れで観光する事になったのですが、そのまえに英語を上手に
話すマリーキクチさんの家に寄りました。そして彼女は私にこう説明してくれました。
「二人はただあなたに何か良い事をしてあげたいだけなのよ」

今日の観光ツアーのガイドをしてくれた二人です。
盛岡から古河へ_d0095604_049661.jpg

観光の後で、私たちはさらにプールに向かいました。その後まだまだ
ホテルには向かわなかった。
私はさらに食事に招待されたのです。ビールとお酒でそれはもう、大賑わい。
私はほとんどテーブルの上で寝てしまいそうになっていました。
それから私の旅行の話になり、チダ氏がすぐ新聞社に電話を掛け、記者を待つ
ことになりました。記者の方とは言葉による意思疎通に問題があったため、
私たちはさらにキクチ氏を待たねばなりませんでした。
そして遂にインタビューを終えました。
私はすでに柔らか~いベッドを思い浮かべていました、、、。
まだでした。
ガイドをしてくれた二人の友達で、私たちと一緒に飲んでいた方が、
カラオケバーに招待してくれたのです。
そしてオーストリア出身でここで働いているウォーレ氏と一緒に歌を歌いました。
彼は私達のグループに加わり、私にドイツ語を話す機会をくれました。
そして歌っちゃったのです、NENAの歌を。
かなりのビールとお酒を飲んだのち、ようやくベッドに入りました。
私は今日の観光をしている間に、スズキ氏と共に明日の観光コースの事も考えて
いました。
10時にスズキ氏はモリチハルさんと共に私を迎えにきてくれ、私達は素敵な一日を
過ごしました。モリさんは私達の通訳をしてくれました。

この着物を着て写真を撮ったとき、実はものすごい頭痛がしていたんだけど。
そんな風にはみえないでしょ。
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私がとても楽しんだお茶会。とても落ち着いていた。
素晴らしい経験でした。
盛岡から古河へ_d0095604_050394.jpg

次の日は休息の日!これは自分へのご褒美。

再び私は歩きたくなった。 長く、ゆっくりとそして遠くへ。
私はバックパックの中身について考え直す事にしました。

私は残りのティッシュ、Tシャツ1枚、シャンプー(お得なファミリー用)、
髭剃り、そして下痢と便秘の薬を御役御免にしました。

私は”幸福感”意外は、必要最小限しか持たないことにしました。
幸福感という言葉では今の私の気持ちを表すには十分ではないかな。
この事についてはよく聞かれます。
いつでも私は、「そうだ!私は天国にいるんだ!」という心の底から確信した気持ちと、
「なんで誰もこの地獄から助けてくれないんだ!」という終わりの時を願うツライ気持ち
との間で揺れ動いています。
この二つの気持ちの間を私は歩き始めた日から揺れています。
ある時は5分周期で、ある時は一日ごとに。
それはいつもツライし、疲れる。この気分は3つのことから成り立っているんです。
私と密接に関わりがある事なので、うまくやっていくのが難しいのです。

一つ目はとても元気すぎる田舎を歩く一人の旅行者として、
道路の交通やそれに伴う騒音。
二つ目はこの天気。とにかく暑すぎるんです、私には。
オーロラが恋しくなります。
三つ目は言葉が話せない事による孤独感。
これが最も厄介です。一人の私を取り囲む人の数で強調されるような孤独感。
この三つの事柄には順位はありません。
例えば時には、孤独感が最悪な物となり、5分後には交通騒音がそれになり、
すると孤独感は忘れてしまっていたり、、、そんな感じ。

これが私が毎日置かれている状態であり、毎日繰り返されています。
とても疲れた状態であることに違いありません。

では何故、歩いて旅をするのか、、、
それは細かい小さな事柄に気づく事が出来るからです。
毎日その日の目的地に向かう途中、体力が無くなれば無くなる程、
自分の周りに起きている事柄に対して、より敏感に感じられるのです。
私はゆっくりと歩くことによってだけでなく、そうした細やかな感覚によって、
より多くのことを体験出来るだろうと思っています。
ポジティブにもネガティブにも。
私はこれが好きなんだ! いや、嫌いだ。 いや、好きだ。 う~ん、でも、、
これを読んでいる方で、私と交代したい方はいませんか?

私のような北ヨーロッパから来た者のとってめずらしい光景を
紹介します。
ここでは私はほとんど泥棒同然ですね。
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# by lothar_diary | 2006-10-27 00:53 | 東北